.........アンボワーズに秋の花 (presented by 夏海 様) *****



──久しぶりにいいお天気、と狭間窓の枠ガラスに額を押し付けて少女は呟いた。
眼下にゆるやかにうねるロワール河が日の光を帯のように跳ね返している。
河は表面にさざ波をほとんど見せないどっしりとした駘蕩を示し、少女が故郷に
残してきたいくつもの清冽な流れと同じ『水』の集積とは思えないくらい濁ってみえる。
大河だからわかりにくいが、このところの長雨のために水量がいっそう増しているようだ。
ロワールの重厚な容はフランスの沃土の化身のようだったが、彼女は親兄弟と共に
残してきた起伏に富んだ故郷の短く荒々しい流れのほうが好きだった。
故郷の小川に踝まで浸かった瞬間の冷たい衝撃を彼女は懐かしく思い出した。
あの驚きと楽しさを。

この国には山がない。
もっと辺境にいけばスコットランドのそれなど比べ物にならないほどの
険峻が重なり合ってそびえているという話だが、彼女はこのロワール渓谷
(この呼び名のなんとフランス風に大げさなこと)を遠く離れたことはまだなかった。
少女が知っているのはただただ平かに広がるロワールの大地と、そして
このアンボワーズの白い城だけだった。

Chateaux de Amboise

12歳になってまだ間もないが、少女はこの国の王太子妃である。
背中を覆う金糸のような髪だけがふさふさと豊かで、あとはどこもかしこも
華奢な造りの、まだ子供子供した幼さを見たものに与える姫君だ。
愛らしい顔つきは繊細で、たぶん将来的には美女になる、と侍女たちには保証されている。
その予想を聞くと悪い気はしないけれど、それでもそうだからといって
少女が特に幸せを感じるわけでもない。
なぜ自分がここにいるのか、いまだに納得がいかない。
彼女の名はマーガレットというのだがここでは誰もそう呼んでくれない。
もちろん侍女たちが仕える女主人の名前を馴れ馴れしく呼ぶはずもないが、
例えば彼女の夫であるあの王太子などは…

「あ、お待ちくださいまし、今急いでお知らせを」
「そんなのは、いらない」

少女は耳をそばだてるとピョコン、と頭を起こした。
噂をすれば影ならぬ彼女がちょうど考えたそのときに、
当の相手の声が部屋の外でしたような気がしたのだ。
気のせいかと思って少女は部屋の隅で椅子に座って
刺繍をしている中年の侍女を振り返った。
侍女は顔をあげ、指を休めてじっと扉を見つめている。
少女の髪が少し逆立った。
急いで窓際を離れ、そわそわと椅子に戻った。
侍女はとがめるような一瞥を彼女にくれると刺繍道具を脇に置き、
衣擦れの音をさせて立ち上がった。

実は少女は彼をあまり好きではない。
日頃滅多に逢うこともないのだが、たまに彼がこうして訪ねてくることもある。
本来なら夫婦だから同居しているのが普通なのだろうが、なにせあまりにも
彼女が幼いため──少なくとも義父であるフランス国王はそう言っている──同じ城内ながらも
やけにだだっぴろいこの建造物のはるか別棟で暮らしている。
彼女の居室は王妃、つまり義母の部屋を通り抜けた城の端っこで、
実は彼女は王太子がどこに住んでいるのかすら知らない。
あの棟ですよ、と外出の際侍女に教えられたこともあるのだが彼女から訪ねたこともない。
要するに彼女は王太子──ルイに興味を持てないのである。

***

最初から興味がなかったわけではなかった。
お定まりの政略結婚でもあり、お前の夫が決まったと父に言われた
さらに幼かった日には、彼女はわずかな情報から未来の夫の姿をいろいろ想像して楽しんでいた。
国を離れる、いや、家族と離れるのはひどく辛かったが、それでも
新天地での新しい暮らしには子供心にわくわくしたものである。
フランスの王太子は自分より3つほど年上だと聞かされた。
故郷の侍女たちはマーガレットのためにそれを喜んだ。
通常こういう婚礼ではもっともっと年齢が離れる可能性のほうが大きいのだそうだ。
なにがよいのやら彼女にはさっぱりだったが、同じ年頃なら
話もできそうだし、どんな人なのか楽しみだった。
やがて間もなく家族に別れを告げて海峡を渡り、ロワールを船で遡って
婚礼のために大陸に足を踏み入れた彼女は、このアンボワーズで
初めて夫となる少年に出会った。
それがルイだった。
扉を開けて入ってきた王太子を一目見て、緊張していたマーガレットは少しほっとした。
簡素な格好をした鳶色に近い濃い色の髪の彼は年齢なりのごく普通の少年に見えた。
彼女がほっとしたのには理由がある。

婚礼の準備で侍女たちがてんてこ舞いのある日、
国で、ばあやにいきなり短い詩篇を覚えさせられた。
「なあに。私、いつもちゃんと司教様のお話は聞いているわ」
マーガレットが不思議そうに尋ねると、ばあやは咳払いをした。
「お黙んなさい、いつか、ああ教えてもらっておいて良かったとお思いになる時がくるはずです」
「何の役にたつの」
さらに尋ねる彼女の言葉に、周囲で衣装を畳んでいた若い侍女たちが吹き出した。
中には顔を赤らめている者もいる。
彼女らをじろりと睨んでたしなめ、ばあやは重々しく言った。
「姫様はこのたびご結婚なさるでしょう。夫婦には神聖な義務というものがございます。
まだお小さいから姫様には当分お要り用ではないかもしれませんが─」
ふいに口をつぐみ、ばあやは目を潤ませてマーガレットの手をとり、そっと撫でた。
「あちらの宮廷はなんだか淫らだと申しますし…一応のご用意はされておかねばなりません」
「だから結婚と詩篇と何の関係があるの?」
さっぱり合点がいかないマーガレットに、ばあやは慌てて笑顔をつくり頷いた。
「いいえ、いいえ、大丈夫ですのよ。馴れれば大した事ではございません」
「……なんか、怖いことでもあるの?」
神様のご加護を受けねばならないような恐ろしい事態でも起こるというのだろうか。
マーガレットは声を潜めた。
ばあやは聞いてはいなかった。独り言のように声を震わせ、
彼女の大事な姫君の手を撫でさすっている。
「まだこんなにお小さいのに…。ええ、でも大丈夫。
これを唱えておれば済みますからね」
「な、なにが?」
我慢ができなくなったようにやや年かさの侍女が一人、荷をつくる手を休めて向き直った。
「メアリ様。そんな言い方をなさっては、姫様がすっかり怯えておしまいになりますわ」
「でも、まだこんなにお小さいのに、遠くフランスまで…」
「マーガレット様」
泣き伏すばあやの躯を押しのけて、侍女はマーガレットに話しかけた。
「なにも怖いことはございませんよ。当然のことですし、それに…」
ばあやの耳をはばかって、彼女は小さく言い添えた。
「最初はしばらく痛いけれど、馴れれば天国のような気持ちにも
なれることなのですからね。恐れてはいけません」
「痛い…」
マーガレットは呆然とした。なんの話だろう、痛いだの怖いだの。
結婚とは神様に誓いを唱えれば済むものだと思っていた。
鼻をかんでいるばあやを憎たらしげに睨み、侍女はマーガレットの小さな手をとった。
「大丈夫、王太子様の仰る事を聞いていらっしゃれば何も怖いことはありませんから」

結局なにがどうなるのか、誰もマーガレットに教えてくれる侍女はいなかった。
明日出立という時に母に挨拶したおりにも、奥歯にものの挟まったような言い方で
夫婦の義務だの神聖なるなんとかだのと言われたが、それよりも
もう二度と逢えないかもしれない娘を抱きしめるのに王妃は必死で、
つっこんだ質問のできるような雰囲気ではなかった。
どうやら自分の身にはとてつもなく恐ろしい事がおこるらしい。
夫婦の間には必ず起こることなのだそうだが、
神様の決めた義務らしいから、逃れるすべはなさそうだ。
マーガレットは意気消沈した。
だが、旅の間はそれでも気がまぎれた。
目に映るのは物珍しいものばかりで、フランスはははるか先にあるように思えた。
だが人生初めての旅が終わり、到着したアンボワーズの城で侍女たちと
だだっ広い広間に座っていると、どうしようもない心細さが彼女を押し包んだ。
義父になる国王は彼女を出迎えにさえ来てくれなかった。
フランスでのやり方は国とは違うのかもしれないが、
そんな違いのため、余計にはるか遠くまで来た気がする。
夫になる少年はどんな人だろう。
彼女は彫刻された重々しい扉をじっと眺めて落ち着かない気分で待った。
正面に義母になるフランス王妃が侍女に取り巻かれて座っているが、
彼が来ないとまだ正式な挨拶ができないのである。
こういうやり方もよくわからなかった。
だから、ただひたすら眺めていた扉が開いた瞬間には
マーガレットは体中の力が抜ける思いだった。

従騎士を何名か引き連れて現れた少年はもうすぐ13という年齢のわりには少し小柄だった。
はしっこそうな明るい茶色の目で彼はマーガレットを認め、大股に近づいて来た。
「こんにちは」
第一声はこれだった。自己紹介もなにもなく、
彼はマーガレットの腕をとって立たせるとそっと抱擁した。
マーガレットは少し混乱した。
きっとこの少年が王太子なのだろうが、誰も何も言わないので
本当にこの人が自分の夫になる人物なのか不安になったのだ。
少年はマーガレットを放すと、品定めをするような顔つきでじっと見た。
その胸のボタンに自分の金髪がひっかかっているのを彼女は眺めた。
せっかく侍女たちが整えてくれた髪が乱れてしまった。
「名前は?」
彼が自分に尋ねたのだとわかり、彼女は慌てて答えた。
「マ、マーガレット」
「マルグリット」
彼は繰り返した。
フランス風の発音になると、自分が自分でないような気がして彼女はますます混乱した。
違うわ、マルグリットなんて名前じゃないの──そう言おうとしたが、少年──たぶん王太子は
彼女の手をとるとくるりと王妃の方を向いた。
「あの、あなたは王太子様?」
自由なほうの片手でドレスの裾を踏みつけないように掴み、小柄のくせに
大股の彼を急ぎ足で追いながらマーガレットは小さく尋ねた。
「ルイ」
ちら、と彼女に目をやって少年は頷いた。

結婚の義務問題で散々脅かされていたので王太子とはどんな恐ろしい男かと思っていたのである。
だが現れた彼はごく穏当そうな少年で(身分を考えるとやや言動に重みがないが)、
顔もうっとりするような美男子ではないがかといってもちろん悪魔のような魁偉な容貌ではないし、
我慢できないわけではなさそうだった。
マーガレット──ここではマルグリット──は安心し、王妃への挨拶も上手にすることができた。
フランス王妃はその礼儀ただしさに満足したようで、身を乗り出して彼女を優しく抱きしめてくれた。
(これならなんとかやっていけそう)
マルグリットは横目で王太子を見た。やはりまともそうに見える。
王妃が周囲に耳打ちをし、頷いた侍女たちの手でマーガレットは後ろに導かれた。
「ルイ」
王妃が王太子に語りかけている。
「晩餐までもう少しありますから、姫を私の部屋にお連れして。二人でお話でもしていなさいな」
え、とマーガレットは少しどきどきした。
フランス語に不自由はしないが、初対面でいきなり二人きりというのは辛い。
「はい」
王太子は簡単に頷くと、マーガレットを見て片手を出した。
「さあ」
この人はどきどきしないのかしら、とマーガレットは首をひねった。
あまりにも自然な態度なので、彼女はかえって緊張して手を差し出した。
その手を掴むと、少年はまたもや大股で歩き出した。
「ルイ」
王妃が声を出した。
王太子は立ち止まり、マーガレットの手を掴んだまま後ろを向いて丁寧にお辞儀をした。
マーガレットも慌ててドレスを摘んだ。

王妃の部屋はわりにこぢんまりした居心地のいい部屋だった。
初夏だというのに時刻のせいか暖炉が燃えていて、少し暑いくらいだ。
王太子は掴んでいたマーガレットの手を放すと、さっさと窓の傍にいって一つ開けた。
そのまま、少しずつ夕暮れの増していく外を見ている。マーガレットは所在なく佇んだ。
何を話せばいいのか、よくわからない。
仕方なく待っていると、やがて横顔を向けたまま王太子が言葉を出した。
「何歳だっけ」
「…10歳」
「ふうん」
しばし薪の爆ぜる音だけが部屋を満たし、マーガレットはまたもや所在なさに耐えた。
早く晩餐だと誰かが呼びに来てくれないかしらと彼女が祈っていると、ルイが彼女に向き直った。
「スコットランドの犬は優秀?」
「犬?」
マーガレットは呆然とした。いきなりの話の切り出し方に度肝を抜かれたのだ。
「猟犬だよ」
ルイは頷いた。そして、自分の持っている犬について、怒濤のような勢いで喋り始めた。
その数、それぞれの名前、特色、彼らがどの動物の猟が得意か、
またそれぞれの動物を狩る場合の注意点など。
マーガレットは必死で頷きながら聞いてはいたが、
実は彼の話とそのどこが面白いのかがわからなかった。
彼の言葉の内容は理解できるのだが、完全に彼女とは別の世界の話だったからだ。
父や騎士たちが狩りに出かけるときの雰囲気は好きだったが
実際に参加したこともないし、どちらかというと興味はない。
喋り終えると、王太子は口をつぐんだ。
「今度見る?」
犬の話だろう。その熱心な目にマーガレットが頷こうとしたとき、扉が叩かれて従者が顔を出した。
ルイはふいと立ち上がり、彼女に片手を差し出した。
おとなしく手を引かれて行きながら、マーガレットは首をひねっていた。
明日結婚式をあげる初対面の相手に犬の話ばかりするルイが、
どんな少年なのか彼女にはよくわからなかったのだ。
とりあえず狩りが好きなのはわかった。
だが、それ以外の彼について彼女が知るには、翌日の結婚式をあげた後も
まだ相当の月日が要ることとなった。

***

部屋に入って来た彼は、マーガレットを見つけると革の手袋を取った。
拍車つきの長靴といい、つばの巻き上がった革の帽子といい、
どうやらいつもの如く狩りの戻りらしい。
王太子のマントが翻らせた空気が彼女に送ってきた匂いは、
晩秋の森の濡れた枯れ葉のそれだった。
「まあ、王太子様」
慌てたように頭を下げる侍女に目をやり、ルイは手袋を机の上に投げた。
「呼ぶまで出ていろ」
低く頭を下げて退出していく侍女を呼び止めたいが、それはできない。
いきなり人払いをする王太子に、不吉な予感を感じてマーガレットは思わず立ち上がった。
「マルグリット、いいものを見つけたぞ」
王太子がマントを撥ね除けて、腰のあたりに手をやった。
彼女の記憶叢が警告を送った。
結婚後の最初の冬、やはり狩りの土産だと言って矢で射られて血まみれの
リスだの犬にかみ殺されてぐったりしたウサギだのを得意げに
彼女のドレスの膝に放り投げたルイの姿が二重写しになった。
マーガレットは悲鳴をあげた。

***

王太子と結婚してしばらくは穏やかな日々が続いた。
出迎えにもきてくれなかった国王は、だがマーガレットの愛らしさを見て気に入ったらしく
王妃ともどもかわいがってくれたし(それがやや気まぐれなものだったとしても)、
彼女が一番気にしていた結婚の義務とやらを持ち出す者も誰一人としていなかった。
スコットランドから父がつけてくれた従者のほとんどが追い返されたが、
新しく国王が手配したフランス人の侍女たちはマーガレットの
幼さと愛らしさに魅せられたゆえかひどく優しく親切だった。
侍女や従者たちとボームを楽しみ、詩をつくり、散歩をし、
礼拝に行き、刺繍をし、本を読み、フランス式の礼儀作法を教わった。
家族に逢えないこと以外は、ほぼ幸福といってもよかった。
だが。
肝心の夫と逢う日があまりにも少ないことに、マーガレットは気がつかなかった。
彼と家族の関係が、自分と家族のそれと違うことにも、そこまで気が回らなかった。
たとえ親切に扱われていても母国とは違うやり方に彼女は馴れなければならなかったし、
フランスの宮廷は王太子と国王の微妙な亀裂の予感をあえて新婚の彼女に教えるほど
無粋ではなかったのである。

だが、非常に天気のいい日々の続いた一年後の朝早くのことだった。
マーガレットはひどく慌てている侍女に起こされた。
王太子が戻ってきた、というのだ。
彼がイングランド軍との戦闘に参加して、勝利を得たことは
昨日アンボワーズにも知らせがきたので知っていた。
だがその町は遠く離れており、昨日の今朝まさか王太子が戻ってくるとは
思わなかったので誰もが驚いているらしかった。
ばたばた走る音が廊下のほうから聞こえており、窓から覗くと
中庭にはずらりと埃まみれの馬が並んでいる。
本当に戻って来たのだろう。
マーガレットは侍女に髪を梳られて急いで顔を洗うと、衣装を整えて出迎えのために部屋を出た。
久しぶりに逢うような気がするのは、最近王太子が父王について
あちこちの町に巡回し、新婚当初よりさらに逢う機会がないためだ。
広間につくと、中央に王太子がいた。
取り囲んだ廷臣たちに挨拶責めにされていて、このたびの勝利が
いかに祝福されたものだったかがマーガレットにもわかった。
イングランド軍は強く、徐々に盛り返してきたフランス軍といえど
繰り返される戦闘で勝つばかりとはいかないのが現状だ。
それを王太子が指揮して勝ったというあたりにこのたびの勝利の価値があるに違いない。
王太子は、侍女に手を引かれて現れたマーガレットを見つけて振り向いた。
マーガレットは足をとめてまじまじと夫を見た。

ルイは、別人のように見えた。
このところ背が急に伸びたからかもしれない。
いや、だが背が伸びたことならマーガレットも知っている。
変化はそれだけではなかった。
彼の目は輝いていた。表情に誇りが満ちていた。
いつも国王や王妃と共にあって宮廷で逢うときの
従順で何を考えているのかよくわからないような彼の表情とは違っていた。
王太子は続いている周囲の祝福に腕をあげて応えると、
いつもの大股で広間を横切り始めた。まっすぐ、こちらに向かってくる。
短い階段を二段とびであがり、ルイは彼女の手をとった。
その勢いで後ろにさがった侍女を無視して、彼はマーガレットをひっぱり、歩き始めた。
「ど、どうしたの」
挨拶もなしなのでマーガレットも挨拶を忘れて尋ねた。
間もなく14歳になる予定の少年は速度を緩めずちら、とマーガレットを見た。
だが塔の階段をあがり、王妃の部屋を突っ切り、廊下を渡って
マーガレットの部屋に入るまで彼は何も言わなかった。
部屋に入るとドアを閉め、彼は振り向いた。
「マルグリット」
と彼は言った。
「なんですか」
彼女が尋ねると、ルイはマントを外しながら言った。
「寝よう」
短い言葉なので聞き違えようはないはずだが、
マーガレットは陽光溢れる窓の外を見た。
「今は朝です」
「それがどうした!」
王太子は怒鳴った。
唐突な大声だったのでマーガレットは怯えて後ずさった。
「今起きたばっかりです」
王太子は口を開けて何か言いかけ、ふと気がついたように彼女を眺めた。
口元に微笑を浮かべると、ゆっくり近づいてきた。
「わかった、そうか。だがオレの言うのはそっちの意味じゃない」
片手を出した。
「おいで」
マーガレットは恐る恐る華奢な片手を差し出した。
手をとらえてマーガレットを引き寄せると、彼は呟いた。
「…当然の権利だ」

その後のことは思い出すのも嫌だ。
長い長い時間が過ぎて全てが終わり、さすがに疲れたような顔で
眠りこけた夫を見ながらマーガレットは呆然と横たわっていた。
ずきずきと痛む躯を丸めていると涙が溢れてたまらなかった。
それでは、これが例の『神様が決めた夫婦の義務』なのだ。
ばあやが心配するはずだ。
夢もロマンもなにもない。愛の言葉も優しい労りも何も無い。
別の夫婦にはあるのかもしれないが、こんな事を
これからもずっと夫が求めるたびにしなければならないのだろうか。
マーガレットにはわからなかった。
王太子の若さや焦りや独占欲や自分の幼さ無知さ
それに二人の置かれている特殊な状況が。
なぜ彼女が夫になかなか逢えないのか。
彼女を手に入れるのに彼が一年も待たねばならなかったのか。
そう、せめてもう二・三年も年齢が上ならばこれほどの苦痛は感じなかったかもしれない。
だが彼女は無理に摘まれてしまった。
もちろん教えられた詩篇を唱えているような余裕はなかった。

──大嫌い、と彼女は夫の寝顔を見ながら呟いた。
口には出さなかったが、岩に水がしみ通るように強く。

それからまた一年が過ぎ、何度か『夫婦の義務』を果たしたが、
やはりマーガレットはそれがイヤでならなかった。
たまにのせいかどうかは知らないが、そういう時の夫はしつこかった。
ほとんど眠る暇もくれない。
これさえなければいいのに、と彼女はそのたびに思った。
彼女はできるだけルイに逢うのを避けるようになった。
それまでもあまり逢うこともなかったが、ますます彼の現れそうなところに出るのを厭って、
彼が宮廷にいるときには彼女は散歩にも出なくなってしまった。
気の塞いでいる様子の彼女に国王や王妃は気を揉んだがマーガレットは何も言わなかった。
夫婦の神聖な義務を厭がっていると思われるのもいやだったからだ。
せめて王太子が彼女のために優しい手管を学んでくれていればよかったのに、
彼のやり方はいつも同じだった。
現れて求めて去っていく。
自分勝手で傲慢だと彼女は思い、なおさら嫌悪が募った。
私は猟犬じゃないわと彼女は思った。
命令されれば喜んでしっぽを振って抱かれればそれでルイは満足だろう。
だが、それではあまりにもマーガレットは寂しかった。

***

「なんだ、その声は」
王太子は手をとめ、不機嫌な顔をあげた。
「そんなもの見たくないわ。こないで!」
マーガレットは叫ぶと、窓際まで後ずさった。
「何の話だ」
王太子がマントを翻して大股に近づいてきたので
マーガレットは慌てて部屋の隅まで移動した。
「なぜ逃げる」
「いや!」
マーガレットは素早くその横をくぐり抜けて部屋の中央に逃げた。
ルイが振り返った。癇癪を起こす寸前のような目で、彼はゆっくりと彼女の名前を呼んだ。
「マルグリット?」
彼女は背後の机の影に隠れようとした。ルイが突進してきた。
マーガレットは咄嗟に小さな躯を低くして、机の下に潜り込んだ。
ドレスが机の脚につかえたところに後ろから手が伸びてきて華奢な足首を掴まれた。
マーガレットは悲鳴をあげておもいっきり後ろに掴まれた足を蹴り出した。
呻きがあがり、ルイの気配が遠のいた。
机の反対側に顔を出して様子を窺うと、ルイが鼻を抑えておき上がるところだった。
「…もおいい!」
ルイが怒り狂って叫んだ。声が少しこもっている。鼻血でも出しているのかもしれない。
「もうやめた!好きなだけそこに隠れてればいいさ」
足音を荒げて夫が出て行き、扉が壊れそうな勢いで閉まると、
マーガレットはへたへたと床に崩れ落ちた。
胸の鼓動が今更のように高く轟いて額に汗が滲んでくる。
呆然としていると、しばらくして追い出されていた侍女が顔を覗かせた。
「…王太子妃様、どうなさいました」
「…なんでもないわ」
マーガレットはようやくそう返答し、立ち上がった。
片方の靴がすっとんでいて、そのあたりを探さなければならなかった。
「まあ、刺繍道具が」
机の上に置いてあったものがそのあたりに散らばっていて、
その惨状を見た侍女が情けなそうに呻いた。
「あら、ごめんなさい」
靴を見つけてはきなおし、マーガレットは少しつんとして
机の上にルイが忘れていった手袋を取り上げた。
罪も無いそれをばしっと床に叩き付けて、彼女は中庭側の窓に近づくとそっと首を伸ばした。
ルイの姿はなかった。
馬もいない。腹立ち紛れにまた城から出て行ったのかもしれない。
あんな人はお気に入りの犬たちと動物を殺して遊んでいればそれでいいのだ。
ほっとしてマーガレットが振り向くと、侍女が転がった巻き糸や針を
拾い集めながら声をかけてきた。
「そういえば、王太子様は来年の春にでも国王様のお伴で
ラングドックまで視察に行かれるそうですね」
「まあ」
マーガレットの胸に翼が生えた。
「本当?」
「はい、なにかと物騒なのですって、南部は。
今年はどこも飢饉のようですし…遠ゆうございますからお寂しいですわね」
「そうなの、遠いの」
ますますマーガレットの胸は弾んだ。
王太子妃の機嫌の良さに侍女は首を傾げた。
さっき悲鳴だの怒声だのがかすかに響いていたようだが、
やはり気のせいだったのかもしれない。この惨状は理解できないが。
最後の刺繍糸を拾い上げて、立ち上がろうとした侍女は自分の膝の傍に
なにかつぶれているのを発見した。

La Florette

つまんでみるとそれは一輪の白い花だった。
この季節の森の涼しい場所にひっそりと咲く、華奢で可憐な野草だ。
どうしてこんなところにあるのだろうと侍女は不思議に思ったが、
くしゃくしゃになっているので王太子妃に尋ねるのも気が引けた。
彼女はそれをベルトにたくし込むと、たちあがり、机の上を整理した。
王太子妃はまたロワールを眺めていた。
あんなに見なさらなければいいのに、と侍女は思いつつ片隅の椅子に座った。
刺繍道具を手に取りながら、スコットランドとはあのロワールのどれほど
遠くにある国なのだろうと侍女はふとそう思った。

秋の空はロワールの上に高く続き、澄み渡った日の光がようやく傾こうとしていた。

〜 FIN 〜



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